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GLOSSARY *  POCHANA *
タイ語仏教
  ヴィエンティアン
  還俗




 
タイ語と仏教 大長老会議 サックシット 涅槃
無我 ニモン プラ・プッタループ 仏壇
三宝 ジャルーンポン プラ 一時出家
ワンプラ 托鉢 タオワーイ 安居
菩提 ご縁 可哀相 三蔵
戒律 トート・パーパー 修行 法輪
世間 ポーソー ローソー サマーティ
合掌 宗派 パッチャイ 寝る
マハーチュラ マハ―マクット お寺の種類 お坊さんの呼称
食事 お供え 水浴び M-150
インドの神々 ヨーム デック・ワット お葬式
伝導所 五戒 普通 サーマネーン
布薩堂 自然 ナモータッサ クルアット・ナム
礼拝堂 音楽 読経 尼さん
パリエン・タム 先生 還俗 ヴィエンティアン

プッタ/プラプッタジャオ
タンマ/プラタム
サンカ/プラソン


仏法僧の三宝のこと。仏教語すなわちパーリ語とサンスクリット語がタイ語でつづられた為に発音が軽めになる。ブッダはプッタなのである。聞き慣れないと落ちつかないがタイに住んでいれば慣れてくる。

ちなみにタイ語ではインドから来た言葉に関してKとG,CとJ,TとD,PとBなどで清音と濁音の逆転が起きている。だからブッダはプッタなのである。パーリ語をタイ人はバーリーと呼ぶ。
プラ

プラはそれ(単語:プラ)だけで僧侶(二十歳以上の比丘に限る)や仏像のことをさす。プラは貴いものの接頭語でもある。王族,貴族,僧侶などの人物とそれにまつわる事物や行動につけられる。王様はプラ・バート・ソムデット・プラジャオ・ユー・フアと呼ぶ。プラ・ナームは(王の)御名前,プラ・ラーチャダムヌーンは(王が)ご行幸になる,と使い道は多すぎるのである。
ワンプラ

仏の日。タイのカレンダーで仏像のマークが入っている日のこと。月に4回あり,新月と満月,2度の半月の日は昔は現代の日曜日のように,仕事を休む日でありお寺にお参りする日であった。今でもワンプラには托鉢の供養をする人が増え,お寺に行き五戒を守ることを誓い瞑想会や説法会に参加する。学校では僧侶を招いて仏教儀礼を行う。お坊さんは新月と満月のワンプラには布薩堂に集まり,当番のお坊さんが具足戒227条を暗唱し,持戒を互いに確認し合うという厳格な行事を行う。
<菩提>を弔う

菩提はタイ語でワット・ポーのポーだが,タイに 菩提を弔う という云い方はない。大乗仏教的な僧侶ではなくとも皆成仏できるという考え方が,南方仏教圏にないからだろう。タムブンとかタムブンクソンとかウティット・ハイなどお坊さんに供養して読経してもらうことで徳を積んでその徳が故人に送り届けられる/自分や身内の者に帰ってくる ということばと行為が替わりにあるといって良い。
ご縁

ご縁があって云々。ご縁ということばのニュアンスを含めたぴったり来る語はなかなか見当たらないが,ミー・ブン・マーク あなたに/わたしに/わたしたちに大きな徳があるからこそ, というのが同じシチュエイションに当てはまりそうだ。
ナー・ソンサーン

かわいそう,の意。ソンサーンの語源はサンサーラつまり輪廻である。廻りあわせを,或いは人間の業を嘆く,といったところだろうか。一方,日本語のかわいそうは可愛そう,すなわち愛しい者への気持から発せられることばであり,両者の違いは興味深い。
チャン

お坊さんが食事をとる時に使う,食べるという動詞。ちなみに口語の一人称オレ/ワタシも同じ単語であるがお坊さんは一人称にチャンは使わずに,アータマーという語を使う。
パティバット・タム

修行の意。直訳すると(仏)法を行ずる,となる。友達の坊さんから  タイの教団はウィナイ(律)とタンマ(法=釈尊の教え)を最も大事にしているが,お前の日本の教団が大事にしているものは何だ?と聞かれたことがある。こちらだって律と法だよ,と答えるべきだと思ったが,実情を考えると律も法もないがしろにされていると思い,う〜ん儀礼なのかな,と歯切れの悪い答えかたをした。
ローク

世間の意。インド語ローカから。俗世のことを指すときもあるし,世界あるいは地球を指すときも使う。否定の接頭語<ア>をつけてアローカにすると出世間,出 家の意になる。でも出家という訳は多分的確でないと思う。中国や日本では家族意識が強いこともあって,中国人や日本人にとって世俗的しがらみの最たるものが家族だと感じていたからこそ出家というごが定着したのだろう。
アナッター

無我の意。諸法無我はサッペー・タンマ−・アナッターという。タイ人にとって日本語の二人称<あなた>は<自分でない→だから相手のこと>という思考方法で憶えやすいのではないか,と考えたことがあるがまだ確認していない。
M-150 (エム・ロイハーシップ)

タイのポピュラーな栄養ドリンク。10バーツ。ラベルに1日に二本以上飲むのは危険だとタイ語で書いてある。瓶のキャップは2種類あり,商標の周囲を取り囲むように
LEADERSHIP★HEROISM  と書いてあるのと,もうひとつのは
COURAGE★DEVOTION★SACRIFICE
と書いてあるのがある。タイ語も仏教も関係ないがタイ人の定番なので。英語のメッセージだが,学校で習う仏教に基づく道徳教育の徳目なのかもしれない。でも Devotion はたぶん基督教用語だ。
ローソー

ローソーといえば老僧を思い出すのが日本人だが,タイの人気ロックバンドの名である。個人的には地方のお寺で本堂落慶の結界石埋めの式典のお祭りを手伝ったとき,余興でローソーのコンサートがそのお寺で行われ,ステージの横から眺めることができたので思い入れがある。若いお坊さんたちもあのローソーが来るというので日が暮れる頃からそわそわし始め,僧坊の2階のベランダには椅子が並べられていた。演奏が始まるとお坊さんたちはそこからステージに見入るわけだが,体を揺らしてリズムを取るわけでもなく歌を口ずさむわけでもない。皆が腕を組真一文字に結んで「歌舞音曲に親しむべからず」の戒に触れていないつもりらしい。みんな立派だった。コンサートは観客の喧嘩によって中断。再開されず。
マハ−チュラ

マハーチュラロンコン王立仏教大学。国立チュラロンコン大学とは別。ワット・マハータートを中心に市内何箇所かの寺院で授業が行われる。チェンマイやナコンサワンなどの都市にもマハーチュラの分校がある。地方出身の優秀なお坊さんは都市の仏教大学を目指すのである。そのためバンコクの有名な学問寺は地方出身者がほとんどである。
マハ−マクット

マハ―マクット王立仏教大学。マハーチュラがマハーニカイの大学に対し,マハ―マクットがタンマユットの大学という住み分けがかつてはあったが,現在ではそれぞれの学問の目的,利便性で選んでいるらしい。
ワイクラープ

合掌と頂礼。合掌はここで取り上げるまでもなくタイ人の美質である。ワイもクラープも家庭でも初等教育でも教えられることで,決まった型がある。裕福層の婦人がクラープする(額づく)姿は,厳しく躾られているのだろう,非常に洗練されていてそのしなにクラクラッとくる。
ポーソー

プッタ・サカラートの略語。仏歴のこと。タイでは通常,仏歴を使うのである。西暦2000が仏歴2543年にあたる。ぼくが生まれた年は仏歴2519年である。タイ人には西暦で自分の生まれ年がわからない人も多い。
インドの神々

インドの神々は日本の神道と仏教の関係に似た形で信仰されており,街角や家の庭,会社や学校の片隅にインドの神を祭る祠があり人々はお参りとお供えを欠かさない。タイでは教学上,仏教が上であると明確にされているので仏教のお坊さんはインドの神を拝むことはない。インドの神々の名はタイ人の名前やタイの地名でたびたび出会うのでいくつかタイ訛りのインド神の呼称を紹介する。
シヴァ→シワ,ヴィシュヌ→ピサヌ/ウィサヌ,ブラフマー→プラーム,クリシュナ→クリサナ,インドラ→イン,
例)ピサヌローク < ヴィシュヌ+ローカ
シーナカリン < スリナガル+インドラ
シーン・ハー

五戒。五戒を授かる一連の儀礼はタイ人の必須教養である。次第は三宝への帰依,とセットである。五戒とは不殺生,不偸盗,不邪淫,不妄語,不飲酒。五戒儀礼の作法は仏教徒であれば各種学校,職場,結婚式,葬式,誕生日,オープニングセレモニー,創立記念日,祝日,各種仏教行事についてまわる。
タンマダー

普通,平凡。字面をみるとタンマという語が入っている。法に適ったということだろうか。普通じゃない,はマイ・タンマダー。なかなかやるじゃないか,と云うときに使う。
タンマチャート

自然。法の生命。自然こそが真理に根ざした世界のありよう。
ナモー タッサ パカワトー
アラハトー サンマーサンプッタサ


訳すと,彼の世学であり,阿羅漢である正等覚者に帰命し奉る。三度くりかえし。つまりお釈迦さまへの帰依のことばである。タイ人の必須教養。
プラ・プッタ・サーサナー

仏教のこと。サーサナー・プットとも云う。日本には仏教がないと思っているタイ人は案外多い。そして神道イコール仏教だと思っている人も多い。彼らはゼンやシントーということばを知っているが,イメージがつかめないらしい。タイに日本の仏教を紹介した「一休さん」の功績は大きいはずだが…
ドントリー

音楽のこと。タイ人は外国のポップスは「聴いても(歌詞が)解らないからつまらない」と断言する人が多い。日本のポップスも宇多田ヒカルやグレイ,ラルクアンシェルなどが紹介されているが一部の若者に受けるだけで大ヒットまでは行かないようだ。クラシックやジャズなどの歌なし音楽は同様の理由でインテリを除いて見向きもされない。もっと感性の部分で色々な音楽に接して欲しいと残念に思う。確かにタイポップスは日本のに比べて歌詞に英語を多用するような小細工はほとんどない。そんなタイ人に云ってる事は解らないけど聴ける音(楽)がある。それはお経だ。お坊さん経験者を除いて,ほとんどの人がお経の内容を知らないのは確認済みである。仮説だが,聴いて解らない音楽は彼らにとって,どちらかというと宗教的領域のものであり不安を感じるのではないか。お坊さんの唱えるお経は仏教徒であるゆえに安心して聞けるのではないか。ちなみにドントリーの語源はインドの宗教語タントラである。タントラは訳し難いが,経典(教え)に対する儀軌(実践)のことで,特に密教では秘儀というような意味。
仏壇

仏壇にあたるタイ語はまだ解らないが,日本とは違ったかたちの仏壇がある。日本式の扉のついた箱ではなくて,高さの違う台を組み合わせて,真ん中のいちばん高いところに仏像,真ん中を降りて線香。両側に下からろうそく,花,プムパーン(器に乗った金銀一対の葱坊主のようなもの,宝玉とか摩尼玉にあたるものか)。3段*3列が平均的。もっと台を増やしても良い。立体的な仏壇ができあがるわけだが,拝むときも,写真を撮るにしても真正面から以外には考えられない。立体的に構築されながら,実のところ平面的にしか用を為さない構築物だと思う。タイの美意識によって真正面以外から見ちゃいや,というような建物は多い。
ニッパーン

涅槃のこと。サンスクリットはニルバーナ,パーリ語はニッバーナ。滅と漢訳される。欲望も喜び悲しみの浮き沈みもすべて統御され,静かな安楽のみがある状態。寺の若いお坊さんたちは,なんで日本の坊さんは結婚できて,酒が飲めて,女の子と映画館に行けるのかと質問してくる。それに答えて曰く,日本の坊さんはニッパーンを目指さなくていいんだ,というようなことを云ったら,間髪いれずみんな声を揃えて,そりゃ違うお前の誤解だ。つっこまれた。南方仏教徒にとって涅槃は仏教の大前提なのだ。話は変わるがバンコクで発行する日本語フリーペーパーの記事で,タイの新聞で日本を取り上げた記事を日本語訳してタイ人の日本像を探る,というコーナーがあり,オリンピックの頃,「日本人は応援するとき何と言っているのか,ニッパンに聞こえるんだけど」という質問投稿に対して「ニッポンはイープン(タイ語で日本)のことです」と答えるという記事があった。この投稿者はニッポンをたぶん涅槃ニッパーンと解釈して,日本人はニッパーンを勝利の意味に結びつけるという飛躍的な応援をしていると心配になったに違いない。
タンマチャック

法輪。ダンマチャクラ。仏教のシンボルマークである。輪が回転することが教えが伝わることを意味する。タイでは黄色地にタンマチャックが描かれた旗を仏教旗としている。法輪の軸は八本なら八正道を象徴し,12本の軸の法輪なら4+12で四諦八正道であろう。
タイ語と佛教

タイ語化された仏教語は道徳規範を表す言葉として深くタイ社会に浸透している。そんなことばを拾って不勉強を覚悟で解説してみる。少々脱線気味ではある。そしてタイ語がある程度できる人に向けて,お坊さんに接するときに役立つような特別な言葉遣いを並べて解説してみた。若い世代のタイ人もお坊さんに対する言葉遣いを知らず敬遠してしまう人も多いそうである。しかし,日本人が正しい言葉遣いを知らないことでお坊さんが腹を立てることはないハズなので,臆せず話しかけてみて欲しい。
サマーティ

精神集中の状態のこと。漢訳経典では三昧や三摩地となる。座って瞑想することをナン・サマーティという。仏教学上は厳密にどんな境地か定義されるはずだが,タイ人は精神集中の意味で頻繁に使っている。例えばテニスの試合のアナウンスで「両選手は試合中サマーティの状態を続けることを必要としますので携帯電話など鳴物類は音が出ないようご協力下さい」と。瞑想寺のお坊さんが言うには,高い瞑想の境地をチャーン(漢訳: 禅)と呼ぶが,この段階を経験出来ていない人が瞑想を指導する場合,不妄語戒(悟ってないのに悟ったと言う罪)に触れる恐れがあるのでチャーンを使わずサマーティという言葉に置き換えて説明するそうだ。
ガーン・ソップ

お葬式。直訳は死体の儀式。仏教では本来在家者の葬儀を僧侶が執り行うことはない。しかし信者はよりよい葬儀をして供養したいとの思いから清浄な場所であるお寺を会場に借りる。すると,お坊さんは寺に来たなら仏の教えを聞いていけ,と云うことになる。なのでお坊さんは棺桶でなく参列者の方を向いて読経する。これがタイの一般的なやり方。読経のお坊さんは必ず4名である。お通夜は遺族以外にも施主が名乗り出れば何晩も続けられ,最後にお寺の中にある火葬施設メーン(語源はメール山)で燃やす。以前,タイのお坊さんに日本人は死ぬときぐらいしか宗教に対してお金を使わない人が多い,だから葬式の仏教と呼ばれたりする,お坊さんの中には日々舞いこんでくる葬式で生計が立つのもいる,という説明をしたとき「そりゃ,ギン・ピーだな」(オバケ/精霊を食い物にしてる,の意)という反応だった。そういう言葉があるということは,タイにもそういう坊さんはいそうだ。
クルアット・ナム

仏教儀礼の最後にある,お坊さんのお経に合わせて器に水瓶の水を注ぐ作法。このときのお経をアヌモータナーと呼ぶ。共に喜ぶ,という意味。水を注ぐのは,川の水が海に流れるが如くに福徳が満ちますように,ということを表す。儀礼に参加する人は器のふちに手を触れるか注いでいる人の身体を触るかして福徳をさずかるのだ。その前までのお経が短くても冗長でもこのクルアット・ナムが終わることで,タイ人は満腹感に似た満足を得ることができる。仏教儀礼のデザートとも云える。
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ジャルーンポン

お坊さんが信者に話しかけるときや,別れるときに云うことば。「ごきげんよう」が聖なる力をもったようなことばである。とびっきり優雅に発音すれば品格あるお坊さんに。
プラ・プッタループ

仏像のこと。タイでは,日本のように諸仏諸菩薩の尊像があるわけではなく釈尊像のみである。ただしお寺の本尊ごとにそれぞれ固有の名前がついている。ワットリヤップの本尊はプラ・プッタ・マハーラート(大王ブッダ)という。
サックシット

神聖さ。お坊さんはもちろん聖職者である。学校の先生やお医者さんも聖職者として然るべき扱いを受け敬われるが,もちろんサックシットが要求される。日本のように神聖さが失われ友達のように聖職者と接するということは通常あまりない。一線を画すのだ。もしあるまじき行為が発覚しようものなら糾弾される。
タオワーイ

献上するの意。仏教儀礼では必ずお坊さんに供養物を献上する場面がある。お坊さんはものを欲しがらないのが建前であり供養に対してお礼を言う必要がない。供養する者の徳として本人の内面に徳と善が積み重なっていくと考える。
ニモン

お坊さんに世俗でいうチューンのかわりに「どうぞ」というときに使う。お坊さん同志でも謙譲の気持をこめて使う。ニモンする,というときは家庭や店舗,会社にお坊さんを招待して仏教興隆と家内安全などの読経をしてもらい食事を供養する儀礼の意味になる。
シーンウィナイ

シーンが戒,ウィナイが律と訳される。比丘の戒律に227の項目がある。性交するな,から始まって,食事のマナーなどの瑣末なものまで。ウィナイは社会の中でも規律やルールという意味で使う。交通のウィナイを向上させましょう,というスローガンもある。
マハーテーラ・サマーコム

大長老会議。サンカ・ラート (サンガの王:長者)が議長を務める。地方の教区の長老全員とサンカ・ラートが指名する3〜8名の僧を以って構成し教育相宗教局長が書記を務める。タイにはマハーニカイとタンマユットの2派に分かれているが対立するわけではなくタイ・サンガとしてタイ国家の教団として統合されておりその最高決定機関。もちろん大長老会議の構成員は両派からなる。
プラ・アラハン

阿羅漢,さとりに到達した者。ブッダとほぼ同義語であるが,ブッダは釈尊ゴータマ・シッダッタを最上の師として別格にし,仏弟子の最高境地をアラハンとしている。戒の第4項には,自分がさとった者だと吹聴してはならないとあり,お坊さんが自らさとった,と云うことはない。しかし高僧と呼ばれるお坊さんは,信者の間で,あのお方はもうアラハンではないかとささやかれるのだ。高僧の死後は,マハーテーラ・サマーコムでそのお坊さんがアラハンか否かの認定が会議の議題にかけられるそうだ。
ビンダバート

托鉢のこと。タイ語はタックバート。托鉢供養することをサイバート。お坊さんは通肩で僧衣を着て鉢を持ち裸足で街に出る。時間帯はだいたい5時半から7時の間。サイバートする人はとおりに出て待つ。お坊さんが来たら「ニモン」と声をかけてサイバートする。ビニール袋に小分けしたご飯やおかず,飲料水,デザート,封筒に入れたパッチャイ,花,ろうそくと線香など。ご飯はおひつに用意してしゃもじで入れる人もいる。昔はおかずもしゃもじですくって入れたので鉢の中はまぜご飯状態だったそうだ。
ワット・バーン と ワット・パー

街のお寺と森のお寺の意。お坊さんのメンツが異なるような気がする。街のお寺は小学校6年までの義務教育が終わって家が貧しいから親にお寺に入れられた,というパターンがほとんどである。一方,森のお寺は分別ある年齢で世俗の仕事,地位,家族を捨てて瞑想修行に来た,というようなお坊さんが多い。もちろん当てはまらないのもいる。森のお寺の坊さんの方が本格派に思えるが,12歳で街のお寺に入れられた中から学問で大成するお坊さんが出てくるのだ。良し悪しは別にして学問の始まりは積め込み暗記の鬼の勉強で若い吸収のよいアタマが必要だからだ。ある程度年が行ってからの出家では間に合わないそうだ。
トート・パーパー

本義は,森に布を投棄する。転じて誰が与えたか解らないようにして不特定の人々に物を与える,という儀礼。具体的にはバナナの木やそれを模した発砲スチロールの柱に,お寺や街中で寄付を募り,寄進者は竹串にはさんだお金や物品を突き刺す。この木やその他もろもろの物資をトラックやバスに乗せてよその土地に持っていって (たいていはバンコクなどの大都市から地方の農村) 行き先のお寺でパーパーのお祭りを催し,地元の人々が集まって都市の人を歓迎する。寄付はそのお寺の補修の資金になったり,地域の福祉に使われるのだ。安居が明けるとトート・パーパーがさかんに行われる。田舎から都市に出てきたお坊さんが都市のお寺の裕福層の信者を連れて,故郷に錦を飾るわけである。信者にとってはリゾートではない地方農村に出る貴重なチャンスでもある。タイ仏教の重要な経済活動である。
サンカターン

お坊さんに対するお供え物で,その内容は贅沢品ではなく日用品であるべきとされる。お寺の前の商店街などでは,たいてい黄色いバケツに入ったサンカターン・パックが売っている。その黄色のバケツの中身は,石鹸,歯ブラシ,歯磨き粉,洗剤,黄色い手ぬぐい,懐中電灯,鰯の缶詰,インスタントラーメン,飲料水,スプーン,フォーク,中国茶,砂糖,腹痛薬,かゆみ止め,ばんそうこう,剃刀,腰巻,ボールペン,ノートなどである。
パッチャイ

依るべきもの,という意味。お坊さんにとっては4種ある。衣=黄衣,食=托鉢,住=木の枝の下,薬=水牛の尿,が本義である。しかし日常でパッチャイというとき,多くは現金(のお布施)のことを指す。お坊さんの戒に「金を持たない」という項があるが現代は生活が困難になるのでお金の所持は認められている。しかし,現代でもお金に絶対触れない,というお坊さんはいる。この場合は在家の信者が学費や交通費などを支援することになる。たとえば長距離バスに乗るなら切符を買ってから,お坊さんに渡して送り出すという具合である。
マハーニカイ とタンマユット

マハ―・ニカイとタンマユッティ・ニカイとも云う。マハーニカイは多数派である。タンマユットはラーマ4世王が王位につく前に僧侶として修学していた時期がありそのときに設立されたという意味で誇り高い派。マハーニカイが律を現代的に解釈する傾向があり,タンマユットが律の伝統の尊守を重視する。タイ人一般がどちらを信仰するかといえば,人それぞれの様である。近所の寺がタンマユットだったらその寺にお参りに行けば良い。さらにもうひとつの宗派,チーンニカイがある。中国派のことで中華街を中心にいくつかお寺を持つ。彼らの黄衣はズボンと中国式ボタンの上着,その上に袈裟を折りたたんだ状態で肩からかけている。独特ではあるが上座部の仏教でありタイ・サンガに属している。チーンニカイの若いお坊さんもマハーチュラなどの仏教大学で学んでいる。
ソン・ナム

お坊さんが水浴びするときに言う。一般人はアープ・ナム。ソンを使うと浴びるというより,水をする,がごときつるんとした語感。
ヨーム

仏教信者一般を指す。お坊さんは知らない人に話し掛けるときもヨームといえば良い。お坊さんは得度すると両親でさえもポー・メーじゃなくてヨーム・ポー,ヨーム・メーと呼ばなければならない。地方から都市に出てきたお坊さんが,学費などを支援してくれる信者に対してもヨーム・ポー,ヨーム・メーと呼ぶ。
デック・ワット

寺男のこと。在家でありながらお寺に常住し,寺の掃除,お坊さんの荷物持ち,使い走りの買い物,送り迎えの運転手,と何でもこなすかわりに,寺から学校に通ったりする。食事はお坊さんの托鉢のお下がり。部屋代や食費はかからず苦学生を支える古き良き慣習である。
サムナック・ソン 

お寺(ワット)の条件を満たしていない仏教施設。お坊さんがいて粗末な礼拝堂があるが結界石をもつ布薩堂がない。仏教伝導所といったところか。貧しい農村の人々の信仰の拠り所であることはお寺と変わりない。サムナック・ソングである原因はもちろん地域の経済状況による。
ウボーソット

布薩堂。略してボートとも。8つの結界石に囲まれたお堂。信仰の対象としてより,まずタンマとウィナイの拠り所としてある。お坊さんの得度式はウボーソットで行われる。新月と満月のワンプラには坊さんが集まって,懺悔をし合い,当番の坊さんによる比丘の律227項目の暗唱の儀礼パーティモークが行われる。
ウィハーン

礼拝堂。ウボーソットに対して信仰の対象,としての場所。たいていのお寺ではウボーソットとウィハーンが別であり,日本語で本堂と呼ぶ場所はウィハーンである場合が多い。両所兼用のお寺もある。ワット・リヤップもそうである。
スワットモン

読経のこと。スワットが唱える,モンがお経とか呪文という意味。モンの語源はマントラ=真言。ニモンのモンも同様である。お経は丸暗記する。お寺や地方ごとに節回しが異なったり,重用するお経が違ったりする。タイのお経はパーリ語をタイ文字でつづってあるので発音や声調にタイ文字の影響がある。三音階のメロディがあるように聞こえる。
パリエン・タム

パーリ語の試験合格者の称号。1段から9段まであり9段が最高位。3段以上のお坊さんがプラ・マハ― …と呼ばれる。合格すると相応の団扇が授与される。団扇はふちにシンプルな刺繍が施され中央にタイ数字で段の数が入っているが,9段の団扇だけは数字が入っていない。しかし8段以下が,柄が木製で頭頂部が金属製なのに対し,9段は柄と頭頂部が象牙でできているので一目見たら解るのである。授与式は特に6段と9段合格者はワット・プラケオの本堂で国王もしくは皇太子から直接授与されるとあって,そのお坊さんの家族や師僧や友人がかけつけ盛大にお祝いする。
アーチャーン

先生のこと。インド語のアーチャルヤーから。日本語でも音写されている。即ち阿闍梨。お坊さんを呼ぶときも頭にアーチャーンもしくはプラ・アーチャーンを付ければ良い。先生ということばにもう一つ,クルーというのがある。語源は旧称オウム真理教でおなじみのグルである。アーチャーンとグルはどちらが上かというと,たぶんグルである。オウムでは尊師と訳していたように人生の師というような重い意味合いか。チベット仏教でグルに相当する語がラマであることからも解る。坊さんである以上,教えることの出来る立場であることを自らを戒めつつ。
トライピドック

三蔵のこと。経蔵,律蔵,論蔵から成り立つ仏教聖典。トリピタカ,ティピタカがタイ語訛りになってトライピドック。一人前のお坊さんになれば立派な戸棚にハードカバーのトライピドックを揃えるものなのだ。紐解かれ活用されるか部屋の肥やしになるかはもちろんお坊さん次第。
パンサー

安居のこと。雨季の3ヶ月間は遍歴遊行せず,ひとつのお寺に留まり(つまりもともとはお坊さんは流動的な人達だった)瞑想と修学にはげむことを安居という。お坊さんとしての経歴は安居を何回過ごしたかで測る。数字+パンサーという云い方。安居が始まるときと明けるときは信者が集まって盛大に祝う。安居明けの間近になるとお坊さんたちはそわそわし出し,里帰りや旅行の計画を立てる。
一時出家

タイには男子の成人儀礼的な意味合いで一時出家の(制度ではなく)習慣がある。半年でも3ヶ月でも3週間でも3日間でもよい。短期でもお寺で修道生活を経験することで一人前と認められる。同時に親孝行なことでもある。仕事も学業も堂々と休みを取れるらしい。ワット・リヤップでは一時出家の坊さんは間違いなくバンコク出身の裕福層の子弟だ。一方パーマネントのお坊さんは地方の農村出身。あまり話が合わないらしい。そして一時僧の彼にはたいてい婚約者のような女性がいて,毎日尋ねてくるのである。もちろん一線を超えないために部屋に入れずオモテで距離を置いて会話する。同じ格好だが別物のような気がする。
ジャム・ワット

寝るときは「寺に留まる」という云いまわしをする。寝るの意味も使えるし,語義通りどこのお寺にいますか,という時に使っても良い。安居を過ごすことをジャム・パンサーという。向上心強いお坊さんはよい先生を求めて安居先のお寺を決める。タイ国内の高僧の中には,絶対眠らないのを信条とするお坊さん(名前は失念)がいて,信者が夜中2時3時に訪ねてくるのを歓迎するそうである。
お坊さんの呼称

いろいろな呼び方がある。基本としては<プラ・名前(名字不要)・チャーヤー(法名)>があり,パリエン・タム三段以上で<プラ・マハー・名前・チャーヤー>と呼ばれる。業績によってタイの教団から与えられる称号があったりしてこれがかなり複雑である。親しみを込めた敬称としてルアン・ピー,ルアン・ポー,ルアン・プー,ルアン・ター,がある。ルアン・ピーは兄貴の"貴"に敬意を込めたことば。お兄さんぐらいの世代(と思える年齢)のお坊さんを呼ぶときに使う。ルアン・ポー,ルアン・プー,ルアン・ターは年配のお坊さんを呼ぶときに使う。ルアン・プー,ルアン・ター(おじいちゃん)は使うべき対象のお坊さんが決まっているようである。ルアン・ポー(お父ちゃん)が年配のお坊さんを呼ぶときは無難である。相手の名を知っていたら<ルアン・ポー・名前>と呼べば良いし,知らなかったらただルアン・ポーと呼べばいい。二十歳未満だったらネーンと呼ぶ。
サーマネーン

サーマネーンとは通常,二十歳未満の見習い僧のことを指す。略してネーン。漢訳経典では沙弥という字を当てている。八戒を持ち,227戒を持つ比丘とは別格に見なされる。比丘の小間使いをし,席を譲り…と上下関係ははっきりしている。
メーチー

お寺に留まり白服で修道生活を送る女性。厳密には比丘尼,尼僧,尼さんではなく,お坊さんより地位が低い。八戒を持って生活している。連れ合いの男が信用できなくなってお寺に入る,という人が多いらしい。生活は朝晩の読経,瞑想,掃除のほかに台所の仕事など,お坊さんのサポートの部分がある。この部分が男女差別だと憤慨する人もいれば,男女の恋愛抜きでお坊さんに尽くすことができると居心地よく生活できる人もいる。前者のような人にはメーチー専用の道場も有る。別れた男が寺に迎えに来てよりを戻そうと押し問答,なんて光景もよく見られるらしい。本気で比丘尼として得度したい女性は台湾に行くそうだ。
ヴィエンティアン

仏像やお寺のお堂の周りを帰依の心を表す為に,右回りに三度周る儀礼。裸足で合掌した手に花と線香とロウソクを持つ。転じて,一度の托鉢で同じ人に繰り返し供養を受けるお坊さんを「ヴィエンティアン坊主」と呼んだりする。
ラー・シッカー

還俗。教条(シッカー)を離れる(ラー)という意味。三つのシッカーが,戒定慧の三学を指す。還俗したいと云う時は「黄衣が熱い(パー・ルアン・ローン)」と表現したりする。
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