ぼくが日本語を教えているMさんが特に信仰を以って日々唱えているお経である。彼はこのお経のご利益を彼の日本人の友達にも分けてあげたいと望み,ぼくにお経のカタカナテキスト化とお坊さんの解説文の翻訳を頼んだ。訳が正しいかどうかは不安な個所もあるが,一読していただけばかなり強烈なお経だと云うことが窺い知れる。お経も在家向きとしては非常に長尺の部類に入るであろう。
三蔵頂章経の読経の功徳について
三蔵頂章経を朝夕に読経する者は悪の境界に落ちることがない。読経の供養を家の為にすることは様々な災厄から免れることになる。他の経典の勤行を数百数万繰り返すとも三蔵頂章経の一度の読経の功徳にはかなわないのである。
帝釈天,梵天,閻魔天,鬼神らの神通力が創出する現象,真実のことばはそびえ立つ塔となり人間界から梵天の世界へと導いてくれるも三蔵頂章経の功徳にはかなわないのである。そして三蔵頂章経は三蔵原典の肝要な徳目を解説するものであり,さらに奥深い徳目を内包するものでもある。
三蔵原書はサワンカローク(天界)で紐解くことができ,その書は椰子の葉の上にコーム古代文字で刻まれている。タイ文字にセーン比丘によって訳出され,ピサヌローク(ヴィシュヌ界)の台座に安置されている。三蔵頂章経出版の為の寄進は,父母,先生,尊師,及びすべての仏教徒のための供養としてなされた。その功徳は罪深い者たち,大小の生き物すべてに無量の光明をもたらし,供養の徳が三つの宝,即ち人間の宝,天界の宝,涅槃の宝として安楽が有情のものすべてに与えられる。
拙僧シリパンヨー比丘,人呼んでルアンポー・ソムシリーはナコンラーチャシーマー県パークション郡の「タムクーハーサワン(天国の洞窟)」に在住している。三蔵頂章経の功徳について先述したことの真実をここに約束するものである。
拙僧が仏歴2507年瞑想修行が終わって間もなく,ウドンタニ県ノンサン郡のプーガオ(九山)に留まったとき,恐怖心に陥り,三蔵頂章経を一心に読経することで先述したように様々な災厄から免れることが出来た。読経しているその時,拙僧は幾百幾千もの神,女神たちが拙僧の読経を聞きにやって来たのが見えた。なぜなら読経のとき拙僧は心の眼で内なる意識を見ていたのだ。
恐怖心はいつの間にかどこへやら行ってしまった。心はそこに独りでいることで静けさを得て,そして言いようのない自分に対しての哀れみが,瞑想修行に対する心持を堅固にしてくれたのである。
拙僧は以前はチャオクン・ウバーリ先生やプラ・ポーティウォンサーチャン先生の教えである「神には身体はあるが自己はない」を先生の著作「仏の徳 法の徳 僧の徳」で読み聞きしただけでその教えに納得しないでいた。身体と自己は同じものではないかと疑っていたのである。自身の心の眼で深く観察することで先生の教えの真実に気づくことができた。だからこそこの三蔵頂章経を尊重し,常に読経するを好むのである。新築の家開きの法要や,寺の年中行事やお祭り,得度式,地鎮祭などでいつも欠かすことなく読経するのである。
拙僧はこの本を書き下ろすにあたって仏教社会の無限の繁栄と,仏教が,巻末の寄付者芳名簿に記せられた仏教徒のみなさんの信仰とともにあり続けることを祈念するものである。
著者 シリパンヨー比丘
ルアンポー ・ ソムシリー ・ シリパンヨー
ナコンラーチャシーマー県 パークション郡
「タムクーハーサワン(天国の洞窟)」在住
後記
印刷の業務に携わった人,そして出版費用を寄付してくれた人,出版に協力してくれたすべての人たちに感謝する。読経することによって,苦しみの中にある人々が自身の法の眼に気づき救いを得ること。その機会を失うことがないようにこのお経を伝えていくことを願う。